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越中国富山城絵図
越中国富山城焼失場之覚
寛永17年(1640)10月、初代富山藩主前田利次は、越中国婦負郡百塚村に新たな城を築くまでの仮処置として、加賀藩が所有する富山城に入城した。しかしながら、成立まもない富山藩の財政事情などを踏まえ、百塚築城を断念。万治2年(1659)加賀藩との領地替を行い、富山町を藩都とし富山城は、正式に富山藩の居城となった。利次は、早速富山城の改修整備に着手する。寛文元年(1661)幕府からの富山城修築許可の内容には、「天守土台石を置き天守を建て、土橋を除き掛橋を造り、櫓三所を建設し、(中略)本丸二の丸堀を浚ひ以って居城に確定せん」(『前田氏家乗』より)とある。
利次入城以後、富山城は歴代城主を他の大名家に代わることなく、富山藩主前田氏13代を城主として明治にまで至る。この間、富山城は幾度も火災に遭い、その度整備復興がなされている。今日その時々の城の様子を窺い知ることが難しくなっており、研究の進展が期待されています。
県立図書館には、数少ない富山城に関する貴重な資料が遺されています。これらは順次デジタル化を行い、当館ホームページの『古絵図・貴重書ギャラリー』において公開しています。テーマ項目である『江戸時代の越中』から『古絵図』→『富山城』の順で画面を開いていくと、富山城に関する絵図が一覧できます。江戸時代の富山城の姿をご覧ください。
越中国富山城焼失場之覚
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